「ママでも金」谷亮子と世界新挑戦イシンバエワ 正しい「競争」

マーケティングやブランドを追求しながら、ふと思うことがありました。

「競争」という問題です。

ある個人が、夢や目標、あるいはノルマを達成しようと努力して、みごと果たしたとき、すばらしい、凄い、と人々から喝采されます。

会社の場合も、予算や売上目標、あるいは利益など、よい業績を上げたなら称賛ものですよね?

棒高跳エレーナ・イシンバエワの世界新記録挑戦と、柔道 谷亮子の「ママでも金」

スポーツは、競技であるからには、人と人との競争になります。

さて、女子棒高跳びのイシンバエワは、2008年北京オリンピックで、アメリカのジェニファー・スタチンスキと金メダル争いの一騎打ちを制しました。

金を確定させたその後で、イシンバエワは5m05cmをクリアして、自己の世界新記録を更新したのです。

また現状での女子棒高跳は、スタチンスキはイシンバエワに勝つことは、金メダル獲得のみならず世界新を出すことを意味することにもなりそうです。
あるいは、スタチンスキ以外の選手にとっても、最低でも5m以上をクリアすることが、女子棒高跳びの優勝を意味することになるでしょうか。

このように、選手たちが「相対的」に競い合うものの、記録という「絶対的」な基準があれば、実際の競技に臨んで相手を負かすというよりも、自分の限界に挑戦して記録を打ち立てれば、それが結果的には金メダル獲得となるという方向になりそうです。

「ママ」は他選手全員を敗者にする

これにたいして、柔道の場合は常に対戦相手に勝つという競技ですから、谷亮子の「ママでも金」という発言は、非常に傲慢で他の選手を侮辱した感じがしないでもありません。

次のロンドン・オリンピックで「ママでも金」を果たすには、その前の国内大会も制して日本代表にもならなければなりません。

こうして、日本代表選考会でも相手選手を負かし続け、オリンピックでも次々と相手選手を負かすということが、敗者を累々とつくっていくということが、「ママでも金」という言葉の内容になるのです。

ところがご存じのように、オリンピックや世界柔道選手権の代表選考会である全日本選抜体重別選手権では、2007年、2008年と優勝を逃しており、政治的決着によって日本代表に選ばれています。
敗者でもない人が、代表に選ばれない屈辱を味わっているわけです。

こうして谷亮子は、自身の夢を語り、目標を立て、それを達成することによって、同じ階級の他の選手の夢や目標を打ち砕き、数多くの競技者の落胆と悔し涙を自身の糧として、また「ママでも金」に向かうのでしょう。

もう、いい加減に後進に譲ったらどうなんですかね?
特に、優勝していないのに2回も日本代表になっているのですから、老害になっています。

それでも「競争」は正しい

さて、個人の夢や目標を達成した結果は、競争相手の夢や目標をつぶすことになるのです。

そして事業の場合も、ある企業が高い業績を上げるときは、反対に食われる競合もあるということになります。

サラリーマンでも、自分が部長や取締役になることを目標にして達成すれば、他の社員の部長や取締役になりたいという願望を打ち砕いているわけです。

起業して、それなりの市場を押さえたならば、競合の業績を悪化させ、あるいは倒産に追い込み、そこの従業員の失業を招き、経営者の自己破産を呼び込むかもしれません。

では、市場経済や資本主義が悪いのかと言えば、そうでもありません。

共産党の幹部の子弟が、能力も低く性格が悪いにもかかわらず、組織の重要なポストを独占し、有能で縁故を持たない多くの人材を腐らせるだけでなく、国家全体の運営を危うくしています。

SEOとブランド

有益なコンテンツに間違いがなければ、消費者に優れた商品やサービスを提供していると自信があるならば、そうではない競合サイトよりも上位に表示されるように努力して、ユーザーにより利益を与える、そのような使命感を持たなければなりません。

同じように、より消費者に支持される商品やサービスであるならば、そうではない競合の商品やサービスには市場から退場を促すことが、消費者の利益となります。

よい情報、よい商品、よいサービスは、「競争」によって、そうではない情報・商品・サービスに勝つことこそが、ミッションになるのです。

SEOもブランドも、消費者にもっと多くの利益をもたらす正しい「競争」と言えるのではないでしょうか。

だから、みずから「田村で金、谷でも金、ママでも金」と言ってしまったのは、他の選手に無礼極まりないのですが、強い選手が勝ち、その選手を目標に努力してもっと強い人が現れればいいのです。

これも正しい「競争」でしょう。

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