箸墓(はしはか)古墳が邪馬台国の女王卑弥呼の墓だったとして…

日本古代史の一部のファンやずれた学者は、卑弥呼が誰だったのか?、邪馬台国はどこにあったのか?、どうでもいいことを一生かけて追求しているようです。

卑弥呼とか邪馬台国は日本文献に出現しないのは?

まず、私としてずっと疑問なのは、卑弥呼にせよ、邪馬台国にせよ、古事記や日本書紀には一切出てこないところです。

日本書紀は、注として、応神天皇の母である神功皇后が卑弥呼であったかのような、変な粉飾をしています。

常識的に考えて、時の権力が卑弥呼や邪馬台国を、意図的に忘れ去ったとしか思いようがないわけです。
そうでなければ、忘れてもしかたないほどの、古い古いエピソードだったとか…

ということは、大和朝廷がどこからはじまるかも問題なのですが、この朝廷側から見て卑弥呼や邪馬台国は、名を挙げてはいけない、あるいは忘れ去られた、大和朝廷が昔々に征服した先代の王朝であった可能性が高いと言えるのではないでしょうか。

漢風諡号に「神」がつく天皇は特別

初代の神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)、第十代崇神天皇(ミマキイリヒコイニエ)、第十五代応神天皇(ホムタワケ)と、漢風諡号に「神」がつけられている天皇は、三人しかいません。

この三人は、絶対に特別なはずです。

あとは「天」。天智と天武の二人です。
一応、天智天皇の弟とされる天武天皇が、古事記や日本書紀の編纂を指示しています。歴史書は、自分の国家王朝の正統性をアピールする手段でしょう。

さて、神武と崇神は、ともに「ハツクニシラススメラミコト」と呼ばれています。
はじめて国を治めた天皇という意味です。

これっておかしいですよね?

はじめて統治した天皇が、二人出てくるわけです。

ちなみに、応神天皇は、母神功皇后と一緒に、九州から近畿へ攻め上って、兄たちを討って天皇位につきます。
この話も、王朝交替の匂いがしますね。

つまり、非常に決定的な権力の動きを背景に、「神」の諡号がおくられていると。

崇神天皇と三輪山とオオモノヌシと倭迹迹日百襲媛(ヤマトトトヒモモソヒメ)

さて崇神天皇は、今の奈良県桜井市に都を開きますが、三輪山の神 大物主(オオモノヌシ)に苦しめられます。

疫病が流行し、そのため皇居内に祀っていた天照大神を外に移したり、神懸かった倭迹迹日百襲媛(ヤマトトトヒモモソヒメ)に大物主を祀るように指示されます。

そして、倭迹迹日百襲媛が嫁いだ大物主の正体が蛇であることに驚き、倒れ込んだひょうしに箸が女性器を貫いて彼女は亡くなります。

その倭迹迹日百襲媛が葬られたのが「箸墓(はしはか)古墳」、今話題の卑弥呼の墓と昔から言われている古墳なのです。

すると、崇神朝は征服王朝で、先の王朝こそ邪馬台国、また倭迹迹日百襲媛が卑弥呼…

と凄い推理が走ります。

神々のことを「天神地祇」といいますが、天神が天津神(あまつかみ)であり天照大神などの天皇家ゆかりの神々、地祇が国津神(くにつかみ)で日本土着の神々のことです。後者は産土神(うぶすなのかみ)とも言われます。

大物主は、もちろん国津神ですが、この別名が「大国主」。出雲の神で、大和朝廷や天津神に対する、巨大な抵抗勢力のボスなわけですね。

大国主とか大物主という神名そのものも、どう考えても尋常ではありません。

日本の史実を中国の史書で探る愚かさ

まず、考古学的な物証では、邪馬台国は九州ではなく近畿になりそうです。

九州説は、文献学の側が強く主張しています。

しかし、この文献解釈とやらが怪しいわけです。

日本の遣隋使が「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す」と時の皇帝 煬帝におくったと、中国の史書『隋書』にあります。

これは、日本書紀では女帝推古天皇の時代で、この隋書の「天子」とは、皇太子の聖徳太子のことである。と言われていますが、納得できますか?
皇太子は、なるほど次期天皇でしょうが、それでも天皇を名乗って外国に使者を送っていいんでしょうか?

助教授が、教授と偽って論文を出そうものなら、目くじら立てるくせに、文献解釈では地位詐称はおかまいなしというわけですよ。

しかも、日本書紀には隋の名も出てこないです。

同じように、卑弥呼も邪馬台国も、日本の文献にはありません。

有名な『魏志倭人伝』の中の話です。

ここでも、日本と想定される倭国、倭国は国々の連合で、その首都機能を果たしたのが邪馬台国で、その女王が卑弥呼と書いてあります。

中国の魏に日本=倭国代表として使者を送ったのが邪馬台国の女王卑弥呼なんですが、この時代に女性天皇はいないわけです。

どうして、日本の文献学者は、日本の文献になく、中国の文献にしかないものを、都合よく解釈して、あれこれ言うんでしょうかね?

卑弥呼も邪馬台国もどうでもいい

普通に考えれば、崇神や応神、そして天武の時に、王朝は交替していると想定できます。

また、高い確率で、箸墓もしくは桜井市近辺のどこかの古墳が、卑弥呼の墓でしょう。

しかし、王朝交替も卑弥呼も、邪馬台国も、日本史としては、どうでもいいと私は思っています。

当時の日本=倭国には、対海国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不彌国、投馬国といった国々があり、その最上位として邪馬台国があって卑弥呼が女王であったわけです。
この、倭国の統治形態こそ、私は非常に興味深いものだと思います。

この緩やかな?連合が破壊されて、中央集権的な本物の大和朝廷ができあがっていくのです。

天津神と国津神、そして仏教。あるいは律令など。

おそらくは、当時の日本のエスタブリッシュメントは、大陸(中国)もしくは半島(朝鮮)出身の者たちで占められていたでしょう。

しかし、大和言葉は滅びず、支配階級も土着神との折り合いをつけながら、日本を支配していくのです。

このダイナミズムの解析の方がおもしろいでしょう?

つまり、誰が? とかの「属人的」な興味は薄いのです。歴史は、組織として動いていきますから…
同じように、どこに? というのも関心は時と場合によりにけりです。

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