超訳『資本論』的場昭弘著 起業家として読む「資本論」序章
私は、起業し、1円株式会社とはいえ社長になっています。
今また逆に世の中では、サヨクが、「蟹工船」でワーキングプアの自分たちになぞらえ、また「資本論」を読んで、資本主義の搾取を暴き、階級闘争を目論む者も出てきているようです。
私は、実は「資本論」を読むにいたったと同じ理由で、社会主義が大嫌いです。
今後展開する予定の、起業家として読む「資本論」の結論は、計画経済および官僚主義の批判であり、全体主義の拒絶であり、消費者不在の労働運動の否定です。
そしてマルクスの誤りは、西洋知識人が誰でも陥った「科学」に対する信仰だったのです。
超訳『資本論』的場昭弘著
では、マルクスの「資本論」の前に、レジュメのような本を紹介しておきましょう。
マルクスの「資本論」では、商品の交換によって、ある商品が貨幣の形態を取るようになり、この貨幣が資本へと転化する、と論理を進めます。
これは、非常に弁証法的な展開で、知的な満足感を得ることができます。
なおマルクスは、人類の歴史として市場社会や資本主義が登場し、資本家は資本の人格化であり、極端に言えば歴史の必然性によって、搾取をさせられている、資本家という役割をこなしている、という認識を示しています。
つまり、剰余価値にせよ、階級闘争にせよ、善悪の彼岸にあるということですね。倫理とか道徳とか、あるいはヒューマニズムを超克した、歴史主義と言えるでしょうか。
これが分かっていないサヨクが非常に多いです。
商品・貨幣・資本と市場社会 そして「科学」
さて、的場昭弘氏は、はしがきでこう述べています。
遺伝子たる商品が残っていれば、また同じような資本主義が復活します。
語るに落ちた、と言えば失礼でしょうが、サヨク的に搾取をともなうと見なされる資本主義は、市場経済と不即不離であり、「資本論」の冒頭にあるように、商品は貨幣を生み貨幣は資本に変わるわけですから、話はややこしくなってきます。
つまり、資本主義を廃止するには、資本家を打倒するのではなく、市場社会を壊滅させなければならない、こういう結論になりかねないのです。
そしてさらに、生産と消費の矛盾、その暴力的な解決が恐慌です。
となると、市場経済を廃止し、生産と消費の矛盾を解消するために、計画経済なるものが後世に発明されることになります。
頭のいい人、よく分かっている人、指導者が無知な大衆を導くわけです。
これが、党とか官僚とか全体主義の温床となる理論的根拠なんでしょうね。
社会主義に限らず、政府による規制または保護も、似たり寄ったりです。正しいことを考えるという人が、君臨するからです。
だから、自由の人ハイエクは、ケインズを批判したんでしょう。
分かっている人が、分かっていない人に干渉する正当性が、「科学」という正しい結論を出せるという信仰なんですね。
一度サヨクは、剰余価値を発生させない企業を作ってみたらどうですかね。やれるものなら…
資本家の誕生 本源的蓄積
労働力の商品化によって、不払い労働が発生し、それが剰余価値の正体であり、搾取の源泉とされます。
なぜ労働力の商品化が起こるのか、なぜ賃労働を行うのか、それは生産手段が資本家に奪われているからだと。
資本主義が回り出すと、資本と労働の関係は再生産されますから、資本家は一生資本家、労働者は一生労働者となり続けます。
では、資本主義のはじまりはどうだったのか?
それが、本源的蓄積と呼ばれるもので、例えば農民から暴力的に農地を奪うことだったと、「資本論」では解説されます。
そのほかの資本家誕生の例として、
疑いえないことは、多くの小さな同職組合の親方と多くの独立手工業者、あるいは賃金労働者さえも、小資本家となり、そして、賃金労働者の搾取のゆっくりとした拡大と、それに照応した終わることのない蓄積とともに、完全な資本家になったのだということだ。(「資本論」からの引用部分)
資本家がどこから来たかは、不明確です。ただ言えることは、機を見るに敏なるものにはチャンスがあった。
ということですから、今も同じように起業すればいいんじゃないでしょうか?
事業を考えたり、商材を販売したり、労を惜しまなければ、嫌なこと不得意なことでも死ぬ気で取り組めば、全員とは言いませんが道は開けると思うのですが…
なお本源的蓄積も、歴史的事実は「資本論」の記述とはかなり違っているというのが、現代の認識だそうです。
インテリゲンチアだった青年時代の「資本論」
私が、起業家として読む「資本論」を展開する自信や根拠は、次のとおりです。
「剰余価値」とか、「搾取」とか、「階級闘争」とか、サヨク用語を使って私を批判しても無駄です。
私は、そこら辺のサヨクとは比べものにならないくらい、マルクスに、また「資本論」に打ち込んでいます。
大学に入ってすぐ、大きく影響を受けた先輩T氏と一緒に、毎週土曜日午後から夜間にかけて読書会をやりました。
その時に、私が用いたテキストが下記、岩波書店・向坂逸郎訳の単行本でした。
お見せできませんが、赤い傍線や、書き込みや、付箋などでドロドロになっています。
第一外国語の専攻がドイツ語だったので、当時東ドイツ共産党(ドイツ社会主義統一党)のマルクス=レーニン主義研究所が刊行した、ドイツ語原書も入手しました。
下図は、ドイツ語原書の中表紙です。
そして、「資本論」第一巻に限って、マルクスは英語版とフランス語版を出版しています。
左が英語版の原書、右がフランス語版の日本語訳です。
そして日本語訳は、向坂訳単行本だけでなく、何度も読み返す意味も兼ねて、文庫版を3種類仕入れました。
左は単行本の岩波文庫版です。中は大月書店国民文庫版。そして右が、名訳と誉れの高い長谷部文雄訳の青木文庫版です。
ちょっと痛い蔵書の披瀝ですが、今から進めたい起業家として読む「資本論」のバックボーンとしての、私の資本論の履歴書を書いた次第です。
ハイゼンベルクの不確定性原理によって、左翼つまりリベラルに
ついでに。
ほぼ同時期に、ハイゼンベルクの不確定性原理を知り、「科学」の限界、傲慢さを思い知り、もともとが自由に価値観を持っていましたから、マルクスの「資本論」を読んでも、左翼=リベラルになったものの、程度の低いサヨクにはならなかったということです。