平清盛前史 王家と公家と武家 藤原摂関家や源氏の一族の内部抗争の偶然から

NHK大河ドラマのミーハーとして、ようやく平清盛とその時代がよく見えるようになってきました。

勧善懲悪はもとより、予定調和、必然という言葉は意味を失います。
とくに『平家物語』や鎌倉室町政権時代の文献の、平氏・清盛悪人史観は、後世の目を曇らせてしまいます。

平清盛は、当時の全国の混乱によって政権交代が期待された時代の、転換期の人格化と言えるでしょう。
その意味で、日本の歴史が必要とした人物だったのです。

ところで、NHKの時代考証を担当された方に倣って、王家・公家・武家という用語を使います。

公家:藤原不比等・仲麻呂 皇后 太政大臣

公家の筆頭 藤原氏の繁栄のキーワードは、外戚政治。
娘が天皇の妻になること、またその娘が天皇の母になること。

この独特な政権掌握の手法は、平安末期まで踏襲され続けます。

藤原氏の黎明期を、簡単に年表にしました。

西暦ことがら王家・ほか
659不比等誕生(斉明天皇)
672 壬申の乱
697 文武天皇即位
不比等女宮子 文武夫人に
701後の聖武天皇誕生(父文武/母宮子)
大宝律令
706藤原仲麻呂誕生 
718後の孝謙天皇誕生(父聖武/母光明子)
720不比等没 
729光明子 皇后に※
737藤原四兄弟病死 
749仲麻呂政治・軍事を掌握孝謙天皇即位
757養老律令
758淳仁天皇即位(仲麻呂推挙)
760仲麻呂太政大臣※ 
光明子(光明皇太后)没
このころ、仲麻呂一族の官位独占。道鏡の台頭
764仲麻呂(恵美押勝)の乱

※王家以外では初ということになります。

不比等には、天智天皇の落胤という説があります。

仲麻呂は、政治のみならず軍事を掌握。一族が官位を独占。王家以外で初の太政大臣に。
称徳(孝謙の重祚)・道鏡の政治主導に、武力を頼んで反旗を翻し、朝敵となって一族は滅亡。

仲麻呂のキーワードは、外戚政治と軍事力をベースとした政権掌握、一族の官位独占、そして反乱と一族滅亡。

公家:藤原良房 摂政・関白 忠実・忠通・頼長

866年、藤原良房が王家以外で初の摂政に。

なお、年少の天皇には摂政、成人後の天皇には関白がおかれるようになります。

摂政:帝に代わって、政(まつりごと)を摂る
関白:帝の言葉を、関(あずか)り白(もう)す~先の関白を太閤と呼ぶ

白河院政期、藤原忠実と、長男忠通、次男頼長の権力闘争もあって、摂関家は政治力を失っていきます。
ちなみに、保元の乱によって頼長は落命。

摂関政治が制度疲労を起こしていました。

王家:後三条天皇・白河天皇

平安末期に、藤原氏を外戚としない後三条天皇が誕生。

アンチ摂関家勢力の支援による親政によって、藤原氏の政治力が弱体化、さらに荘園整理令によって藤原氏の経済力もダメージを受けます。

後三条の子、白河天皇によって親政は継続拡大し、さらには摂関家の混乱と年少天皇の即位によって、「治天の君」による独裁的な院政がしかれます。

摂関家の私兵に近い源氏を遠ざけ、北面の武士などとして平氏を重用。

キーワードは、アンチ摂関家、そして不穏な時代(地方の武装民、僧の強訴など)の軍事力評価。

王家:後白河天皇

失礼ですが、後白河にはポリシーはなかったと見うけられます。
自己の権力維持のみが目的であって、天下国家のデザインはまったくなかったと言えるでしょう。

そして、信西というブレーンもあって、政治力は軍事力となってしまいます。
政権の決定力は武力であると政治が変質し、平氏と清盛は暫定的に政権の中枢を占め、そして武士の時代を準備することになります。

武家:源義家とその子孫 義国・為義・義朝

源義家は、鎌倉幕府の開祖 源頼朝、室町幕府の開祖 足利尊氏、の祖先です。

父頼義の前九年、義家の後三年により、武名はとどろきます。

基本的に、義家も含めて源氏は摂関家の私兵に近く、その流れで義家の嫡流の為義は保元の乱で、藤原頼長についたようです。

義家の嫡男にして、為義の父、義親は狼藉が過ぎて、白河院の命によって平正盛(清盛の祖父)に討たれます。
これも、王家による公家・摂関家の武力を削ぐ意図として考えられるようです。

義家に粗暴過ぎると愛想を尽かされた子の義国は、関東の一部に勢力を持ちます。
後の、山名、今川、細川、畠山、新田、足利の祖でもあり、武家の本流となったのでしょうか。

関東を巡って、摂関家の私兵である為義と、院に仕える子義朝に確執があったとも伝えられます。また義朝は嫡男でもなかったという説も…
これが、保元の乱の、親子敵味方となるベースかもしれません。

なお、頼朝の母の由良御前の身分と人脈によって、義朝は院に仕えることができたし、頼朝も三番目の男子ながら嫡男になったと思われます。

武家:平正盛・忠盛 院に奉仕する武力と経済力

清盛の祖父の正盛ですが、白河院の政治にピントが合ったということでしょう。いろいろ重用されます。
摂関家や源氏が、やや力を失っていたときに、間隙を縫ったということになります。

清盛の父の忠盛は、白河院、鳥羽院に、武家として仕え、貴族として位階を上昇させます。
他方で、密貿易を含んで、経済的基盤を拡張しています。

こうして、清盛の先代と先々代によって、軍事力と経済力が整い、政治力とは言えないが官位を上げることに成功します。

平清盛がやったことと、やろうとしたこと

まあ、基本的に平清盛がやったことは、不比等・仲麻呂がやったことの再現と思われます。
もっと辛辣に言えば、藤原氏の劣化コピー、イミテーションであったということになります。

ただし、別エントリーとなりますが、清盛がやろうとしたことに意味を付与すれば、信長級の革命です。

社長が学ぶ清盛CEO

さて、社長ブログとしての、平清盛に学習するべき経営者の心得は、

市場を支配している上位企業の模倣をすることによって、同じように上位に食い込むことはできるでしょう。
ただし、何を真似るかが重要です。
さらには、真似るにも、いろいろな条件がつきます。

既存の勢力がやや弱ったときに、先行者を模倣し、必要とされる付加価値をつけた商品ならば、ヒットを飛ばすことができるということでしょう。

平氏が滅亡したことに心が奪われ、まして盛者必衰といった役に立たない標語で平清盛を闇に葬っては、あまりに惜しいわけです。

勝ちパターンは、前の勝者の模倣から。
こういうことで結んでおきます。

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