秦による中国統一をもたらした法家 覇道の教科書『韓非子』
今、有料メルマガを発行しています。
これは、コンテンツが大事とか、ナチュラルリンクだよ、という「王道」のSEOに対するアンチ・テーゼ、自作自演をもっぱらとする「覇道」のSEOを推奨しようというものになります。
商用サイトは、王道のような「ねむたい」ことをやっておれません。
Googleのフィールド(戦場)で、数多くの競合とバトルするわけです。
今回あらためて、「覇道」とはなにか? 読書歴によってまとめてみます。
帝道、王道、覇道
私なりの見解とお断りして、韓非子の記述によると次のとおり
帝道は「徳」、王道は「智」、覇道は「力」
また、中国史をご存じの方はお分かりと思いますが、殷から周、そして春秋・戦国を経て、秦が中国を統一します。
なぜ、秦が勝ったのか?
他の国には、チャンスがなかったのか?
敵対者が多い時代では、「覇道」こそが勝ち抜ける。
では、その「覇道」の本質とは?
管仲:宮城谷 昌光
誰もがご存じの三国志時代の偉大な軍師、諸葛亮孔明が尊敬していた歴史上の人物は、楽毅と管仲です。
楽毅は、バリバリのサラリーマン時代に読んで、異常な感動をおぼえました。
超弱小国の燕の将軍となり、同盟を結んだ韓・魏・趙・楚の五国連合軍を指揮する総大将となり、東の大国の斉を滅亡寸前に追い込むのです。
なお、西の大国 秦に対して、斉が東の大国になったのは、春秋五覇となった桓公と宰相の管仲によるものです。
まず桓公と管仲による覇道を知るために、『楽毅』と同じ作者の宮城谷昌光の本を。
まあなんと! 桓公と管仲は長い長い雌伏の時を過ごし、さらにまた管仲による桓公の暗殺未遂事件などを経て、斉は覇者になっていくのです。
ちなみに、この管仲の政治は、「法家」的と評価されています。
戦国名臣列伝:宮城谷 昌光
では、中国の戦国時代はどうなのか?
好奇心は尽きません。
やはり、宮城谷昌光の本を。
さて目次を見て、気づきませんか?
- 越の范蠡
- 魏の呉起
- 斉の孫臏
- 秦の商鞅
- 燕の蘇秦
- 秦の魏冄
- 燕の楽毅
- 斉の田単
- 楚の屈原
- 趙の藺相如
- 趙の廉頗
- 趙の趙奢
- 秦の白起
- 秦の范雎
- 秦の呂不韋
- 秦の王翦
16人中6人が秦、しかも終わりは4人で固まっています。
つまり、戦国末期は秦の中国統一へ向けて、名臣も目白押し?ということでしょうか…
ところでこの16人、天寿を全うした人は少なく、まさしく「蜚鳥尽きて良弓蔵せられ、狡兎死して走狗煮らる」。
御用済みの名臣は、君をおびやかし、上司同僚部下にねたまれ讒言されて、横死するようです。
なお、魏の呉起は「孫呉」と言われるように「兵家」として有名ですが、政治手法は「法家」の先祖のようにもあつかわれています。
同じ「法家」の祖としては、秦の商鞅。
呉起も商鞅も、走狗として煮られるのですが、魏は法を捨て、秦は法を捨てませんでした。
韓非子と法家
ということで、覇道を進めるには、中国では「法家」の政治手法が決定的だったわけです。
法家の集大成は、韓非とその著作『韓非子』。
(↑帯に凄いことが書いています!)
韓非子といえば(あるいは「法家」)、性悪説やら冷酷非情やら、とくに秦帝国誕生に功あった李斯(彼も「法家」)の焚書坑儒などの悪名によって、日本では評判が悪いです。
韓非子によれば、法家の政治学とは
凡人の、凡人による、凡人のためのマネジメント です。
徳のある帝道も、智のある王道も、必要ないのです。
名君、名臣を願い、暴君、奸臣を嫌っても、それらは百年に一度あるかどうか…
ほとんどの時代は、上下左右すべて凡人の組織になるわけです。
よって、偶然とか、恣意とか、イレギュラーなものに期待するのではなく、人徳も、才能も、知恵も無い人たちによっても運営できる組織をつくるべき、というのが法家集大成としての韓非の結論になります。
つまり組織を、突出した指導者やヒーローを必要としない、人材に依存しない、誰でもできるシステムとして運営するべきということであり、普遍的なマネジメントの思考と行動の理論となっているのです。
しかも、組織だけでなく、たったひとりでもルールをつくって、信賞必罰で行動を律することもできそうです。
管仲の斉からはじまって、最後は秦で結晶するのは、法科の哲学による、凡人の上下で天下の覇者となるシステムの構築だったわけです。
ダイジェストというか、分かりやすいのは下記でしょう。
特別な人材や、特別なやり方に左右されない、「利」を中心として、平均的に目標達成するもの。
それが「法家」の軍事・政治の究極の治世学ということです。
ちなみに、諸葛亮孔明は、劉備の息子に教科書として『韓非子』を与えたとのことです。